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露天風呂つき離れの宿をつくった先駆者の成功したおはなし

自己紹介:あまくさ出身の赤木 京子です。私は熊本県の島である天草でうまれ、天草高校を卒業して英語の専門学校に行くために東京へ行きました。東京で就職をして、海外へは13ヵ国、2年半ほどひとりで行き、フランス、パリは1年間滞在していました。現在は東京で介護福祉士の仕事をしています。

東京にいながらも愛する天草を応援するために、天草市がつくった天草市ふるさと住民の広報部の一員としてPRのお手伝いをさせていただいています。天草ふるさと住民noteの記事を通して、天草に興味をもっていただきき、天草へ足を運んでくださるキッカケになったら嬉しいです。

今回は、熊本県天草市天草町下田温泉にある五足のくつの 山﨑 博文オーナーに会いに行きました!
露天風呂つき離れの宿の先駆者である、山﨑オーナーの大成功された貴重なお話しを伺いましたので、ご紹介いたします。

また、天草出身で2009年に定年退職後、天草へUターンされ、おもに天草の風景をFacebookで発信されている、出永 美喜男さんより写真を提供していただきました。以前に私の書いた記事「世界平和を願うお人形さんのエピソード 57ヵ国117人」でもご協力くださいました。
是非、天草の景色も楽しんでご覧いただけたらと思います。


石山離宮 五足のくつのホームページです↓
是非、ご覧ください!


山﨑 オーナーです。
石山離宮 五足のくつのバーカウンターにて。

山﨑 博文 オーナーについて

PROFILE
石山離宮 五足のくつ / オーナー 山﨑 博文
下田温泉一の老舗『旅館 伊賀屋』の六代目として 天草下田温泉に生まれた天草育ちの天草男児。 2002年7月に、九州の西の果て、東シナ海を見渡す山に 全室露天風呂付き離れの温泉旅館『石山離宮 五足のくつ』をオープン。 趣味は散歩と温泉と水泳。旅行家としての一面も持つ。

五足のくつのHPより引用

何らかのかたちで表現をする人になろうと思っていた

--この宿をつくり始めた頃のことを話すと、だいたい伝わるんじゃないかな。非常にわかりやすい展開になっていくと思うんですけど。--

私は下田温泉の明治から続く旅館の六代目なんです。
私は23歳(1984年/昭和59年)のときに東京から戻ってきたんですよ。東京の大学に在学中で、父が旅館をしているかたわら、同業者の保証債務を支払わなければならない状況だった。
父は帰って来いとはいわなかったけれども、当時、100年以上つづいていた旅館がなくなるかも知れないという状態をみようと思って、好奇心といえばおかしいけど、そんな感じで帰ってきました。

帳簿をみると危ないなって感じで。あやしい金融機関のひとがたくさんくるんですよ。やばいなと思ったけど、お客様は来られる。お客様は来ないで経営が…という問題ではなくて、お客様はたくさんいらっしゃるんですよ。突然の保証債務が降りかかってきたわけだから、経営的には悪くはなかった。

--青天の霹靂というか。--

お客様はいらっしゃるから、2ヶ月3ケ月たつうちに、生家でもあるし、手伝いはじめたんです。
当時、私は何らかのかたちで表現をする人になろうと思っていました。

天草・下田の波の穏やかな景色です。
Photo by Mikio Idenaga

チョッキから制服にかえた

--その頃の話がたぶん、信じられないと思われるかも知れないけど。--
私は旅館ではたらく制服みたいなのを着はじめたんです。当時、旅館のご主人たち、女将さんたちは普段着で仕事をやってたんですよ。なぜかというと、ご主人は普段着のベストやチョキにすると腕をまくって水仕事ができるじゃない。だから制服をきて仕事をするなんて考えられなかった。

私は制服みたいなのを作って仕事をしていると、みんな指差して笑ってたんですね。
赤木(私)「どうしてですか?」
どうしてだと思いますか?制服をきて旅館で働く人と制服をきてないで旅館で働く人。そのちがいは制服をきていることは一生懸命やることだった。制服をきないでやることは、それは何かというと、一生懸命がはずかしい時代だった。当時の天草の旅館は、まだそういう雰囲気だった。

仕事、家業を一生懸命やるのは、はずかしさがある。お金のためにやってるんだろうか?みたいな。なんかね、なんかあるんですよ。
赤木「なんか何とも言えないですけど、あまくさ独特の…」
そうそう独特、これホント独特だと思う。

最近の旅館をみると、みんな制服をきるのが当たり前になってきて。
その辺は、私は貢献したなと思っています。私が若い頃に帰って来なかったら、まだみんなチョッキきて仕事してたと思う。

左は山﨑 オーナー、右は私です。
石山離宮 五足のくつ の前で中川 支配人が撮影して下さいました!

工夫した広告でお客様がたくさん!

お客様にマーケティング調査ではないけど、どこから来たのか、何をしに来たのか、どうやって旅館を知ったんですかと聞いたら、7割りが福岡県の人。95%が魚を食べにきた人。何をみてきたか、タウンページをみてきた。

経営的に土壇場な状態だから、タウンページにでっかい広告をのせよう。これも天草的だけど、大きい施設や旅館は大きい広告をとって、小さい旅館は小さい広告をとって、当然だけれども。

当時はまだ大きいことがいい時代なので大きい広告をとってみよう。「天草でいちばんのご馳走の自信があります。」ってタウンページにのせたら、お客様がすごく来てくれて。

天草町下田と苓北町につながる天草灘です。
この記事の写真を撮るために、実家に置いている原付バイクで走りました!

雲仙天草国立公園に宿をつくる

--お客様がたくさん来てくれたことで経営的にうまくいって、本格的に旅館をやろうと思った。--
宿泊産業をするには、海外ではどういう状況なのかを見にいこうと思った。仕事して、海外にひと月ふた月いって、貧乏旅行しながらホテルやいろんなところを見るんだけれども。

当時、1980年の後半ぐらいなんですね。
大都市から覚悟を決めないといけない、覚悟が必要なぐらい、困難な、もしくは遠い、砂漠の中、ジャングルの先とか。そういうところが注目され始めていた。

いよいよ天草の時代がきたんじゃないかと思ったんですよ。不便であればあるほど、旅行者が行きたいモチベーションをかきたてられる、素晴らしい時代になってきたなと思って。
ただね、みてると条件がひとつあって、自然の中なんです。

自然の中の国立公園だから施設をつくるのは難しいだろうなーと思ったけど、とにかく自然のなかの土地を探そうと、小さいころから知ってる土地だけれども、その視点でずっとここを見てまわった。

そんな時に、この土地の開発をはじめた地主さんが開発業者といざこざになっていた。そして「だれか現金化できる人がいれば。」という話になったので、私は「売ってくれませんか。」と手をあげて、買いました。

普通であれば、国立公園だからつくるのは不可能だろうなと思っていた。けれども、雲仙天草国立公園の審議官に相談にいってみた。

すごく理解のある審議官が話された。
「国立公園法というのは施設をつくらないで、という法律ではないんですよ。風光明媚なところを国が国立公園に指定するのだから、国民はこぞってそこに見物や観光にいくことになる。すると、食事するところも宿も必要になる。」

「あなたが自分で開発しはじめたのであれば認可できないけれども、誰かがやったところを改めて自分がやるのであれば許可しますよ、許可する可能性がありますよ。」

計画図面をつくって持っていったら「大丈夫ですよ」になって。
これ、よかったなあと思って。

天草・下田の東シナ海が産みだした自然の奇岩です。

~アジアの中の天草~ 天草を表現した宿

--ただね、そこまで行くのが。--
29歳のときに土地を買ったんですよ。39歳でオープンするんだけれども。土地をもっていれば旅館をつくるのは簡単だろうみたいに思ってたんですね。当時、バブルがはじけて、日本は絶対困難の時期ではあったけれども、金融機関は融資しなきゃいけない、大丈夫だろうと思ってたら、とんでもなく難しくて。

いま、思うとあのとき、簡単にできなくてよかったなと思う。
赤木「どうしてですか?」
いろんな工夫をしたでしょう?工夫が必要な時代だったんだと思って。

例えば、お金で解決するようなところもお金ではなくて、デザインで解決していく、規模的な問題や自然とのありよう、とか。いっぺんに、「これ計画図面です。貸してください。」といって「融資しますよ。」みたいなっていたら、おそらくこの形にはならなかっただろうな。

この宿をつくるにおいて、何がいちばん大事なんだって思った時に、毎日ここに来てたけど、"天草を表現した宿"にならないと、やる意味ないなと思って。ただ単に旅館をつくることではなくて、天草の旅館の息子が天草を表現した宿にしないと、自分にとっての表現の意味がない。

--何らかの表現をする人になりたいと思っていたから。--

アジアの中の天草という言葉が誘いみちになって、いろんな展開をして行くんだけど。アジアの中の天草という言葉がなければ、ここまで天草を表現した宿にはならなかったと思う。

天草西海岸の眺めです。
白い波しぶきは迫力があります!

ローカリズムの表現

当時、地域を表現する、ローカリズムとはあまり言われてなかったんですよ。例えば、日本旅館の集まりや経営者の人たちは”日本文化を表現する”と言っていた。各地に立派な数寄屋の宿があるのは、日本文化を表現した宿をつくらないと旅館の主人として価値がないと彼らが思ってきたから。だから数寄屋文化、お茶文化を背景にお客様をもてなす風にやって来たんだけれども。

私の場合は天草を表現する。どちらかというと、「おもてなしの宿というよりも、自分自身の表現の場としてここを使わせてもらった」といった方がより近いのかな。

ここをオープンしたときに、私は「天草を表現した宿なんだ、とにかくローカリズムの表現なんだ」といっても、「お客様は、うん?」ってピンとこないわけですよ。旅館は”日本文化を表現した宿”という考えは、お客様も共通にいままで思ってきたことだから。

日本の旅館業界の潮流をかえた

今、露天風呂つきの客室って多いじゃないですか。おそらく、私のオリジナルでつくった「五足のくつ」からはじまったと思っているんですよ。

--その頃、"露天風呂つきの客室"ということば自体がなかったから。--

当時は、マーケットから見たら"大浴場のない温泉宿"なんですよ。
赤木「まだ大浴場の時代だったんですね。」
そう、まだそうだった。「温泉宿のに大浴場がない。大浴場がないから嫌です。露天風呂が客室にあるけど、大きい温泉がないと嫌です。」と断っていた時代だった。
赤木「それを変えられた?」
そう。そこに意味があると思っていて。

--日本の旅館業界にとってのひとつの節目というか、潮流をここで変えたという自負がある。流れを変えられたことが一番よかったと思いますね。--

大浴場がいいという価値観を根底から変えたのは、おそらく、五足のくつと思います。

天草の夕日です。
撮影された出永さんより、夕日の撮影は海のうえに雲があることが多々あり、完全なカタチで撮れることは運気しだいで、オレンジ色から赤に近い色に変わりながら沈むそうです。

個人旅行に求められるもの

団体旅行から個人旅行の時代といわれて、およそ30年になるんだけれども。
団体旅行の価値というのは、会社、近所、いろんなグループで年に何度か宴会をして盛りあがる、慰安の場みたいな風潮でしたよね。

--では、個人旅行になったら、個人に何が求められるのか--

個人という2人になったときに、温泉に行きましょうってなるでしょ?温泉に行くのだから、1番のメインは温泉じゃないですか?ところが、温泉に行くときは「じゃあ後で…」になる。男湯と女湯に行くんだから(笑)
1番メインの温泉をそれぞれ1人で味わっていたという、非常に変なはなしだったんです。私は、そこに五足くつの意味があると思います。

--天草を表現した宿、もう1つは大浴場のない温泉宿--

ここで”大浴場のない温泉宿”がデビューして、日本の旅館のひとつの潮流になっていった。五足のくつがなければ、その流れは生れなかったから。まだみんな大浴場に入ってたんですよ。

五足のくつが20周年を迎えた日に発行された熊本日日新聞を山﨑 オーナーよりいただきました!
天草での取材が終わり、東京に戻って新聞を開きました。
どんな思いで山﨑オーナーが天草に五足のくつをつくられたか…
奥深くて、感動して涙が止まりません。

キリスト教が伝わった中世の天草では、ヨーロッパの音楽が奏でられ、美術や医学の研究が盛んであった。

さらにグーテンベルグの活版印刷機による我が国初の本の出版さえも行われていた。世に言う「天草本」である。

西洋文化の華開いた輝かしい往時の天草を旅館のカタチで甦らせようと思った。

海の向こうからやって来る人、モノ、宗教も受け入れ、また自からも海の彼方に夢を求め果敢に出かけて行った天草人。
人生を全肯定した彼らの血が私の中にも流れているからだ。

20年前の今日、天草でしか成立し得ない温泉旅館を開業した。
                       五足のくつ 山﨑 博文

2022年7月1日の熊本日日新聞より引用

からゆきさんの歴史

赤木「天草は歴史がすごいですよね。」
他にはない歴史ですよね。
からゆきさんの歴史とか。私の小さい頃は、まだ行って帰ってきたおばあちゃんたちがいた。

からゆきさん(唐行きさん)は九州で使われていた言葉で、19世紀後半、主に東アジア・東南アジアに渡って働いた日本人労働者のことを指す。

Wikipediaより引用

まず洋服のセンスが磨かれているから、その辺の人たちと全然ちがって、子供心に「あーちょっと違うなあ。」という感じがあった。それと文化的な話しができるんだよ。それだけの苦難の中で、いろんな人と出会て、いろんな話をしてきてるから、教養が身についてる。

それを考えると、ひとつの自分の仕事である旅館というカタチでやることは、すごくやりがいがあった。

自然がつくったダイナミックな天草・下田の奇岩です。

19歳の時に失恋 ~愛情の喪失を知る~

赤木「本棚には本がたくさん!勉強されたのですね。」
大学中退ですけどね。大学に行っている時に父親の保証債務があって、だからではないですけど(笑)憧れて行ったんですけどね。

ちょうどその頃、19歳の時に失恋したんですよ。出鼻をくじかれた感じでした。その時に失恋していなかったらきっと自分がバカになっていたと、いつも思いますね。愛情の喪失を知らなかったから、衝撃を受けたんです。

父親も母親も普通に私のことを愛してくれていたと思うし、兄妹たちとも仲がよかった。愛情を持てば必ずかえってくると思っていた。それがそうではない事態があるんだーと思って。
あの時、失恋の経験がなくて順調だったら、こんなにうまくはいかなかったと思う。

キレイな天草の海をみると心が穏やかに優しい気持ちになります。

天草に帰ってきて本当によかった

私は勉強しようと思った時に本屋に行ったら、田原 総一郎 氏の書いた「電通」というすごく売れた本があった。序文を読むと、田中 角栄 氏の帝国ホテルでのパーティーよりも人を集めたパーティーがその夜にあって、それは電通のパーティだったと書き出しにあった。田原 総一郎 氏が電通のすごさと今後、日本と電通との関わり合いみたいなことを書いていた。

あーこういう会社があって、大学を卒業して証券会社とかに行ったら楽しいだろうなーというモチベーションで勉強していたけど、今になってそのまま行かなくてよかったと思う。その時は良かっただろうけど、どこかで挫折したと、はっきり分かりますね。

娘たちが就職する時代になってきて、それも見守れる立場で順調にきてよかったと思います
天草に帰ってきて、本当によかったと思う。

天草の崎津集落は「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」のひとつとして2018年7月に世界文化遺産に登録されました。その集落にある崎津教会です。

他をやらないで良かった

いろいろ銀行とかお声掛けはあったけれど、他をやらないで良かったと思いますね。

ひとつは崎津に紋付屋さんという昔からある旅館があって、当時、更地になっていたんです。そこの土地を3年ぐらい借りてたかな。いつか譲ってくださいと言ってたけど、結局、売って下さらなかった。崎津が世界遺産になる前のことで崎津教会の近くなんだけど。

旅館やホテルをワンオーナーでやろうとすると、自分の土地にしないと、借りたところでは、モチベーションが下がるんですよ。

五足のくつの門です。
自然のマイナスイオンが感じられ、風情があり、まさに石山離宮です!

本当に楽しかった

これ全部植えた木なんですよ。
赤木「えっ?植えたんですか?」
植えたんです。山を崩して更地になって、奥の方から建物をつくりながら石をはこぶ作業をやりました。この石だけは、天草の石じゃない。なぜかというと、天草の石は鉄分がつよくて苔がつかないから。

石の運搬は、久留米から1人と熊本市内から2人か3人、庭師が朝8時半に運んできた石で仕事をはじめて、夕方5時に久留米・熊本にかえって、1年2ヶ月、毎日、通勤してくれた。石は彼らが全部もって来てくれたんです。
赤木「すごい、感動します!それを知って来るのと知らないで来るのと、違いますね。1年2ヶ月で出来ちゃったんですね。皆さんの心が入ってると思います。」

--庭師さんがすごい能力と経験があったから。--

特に東京のお客様で自宅やいろんな施設、会社などをつくった経験を持っている人、その中でもバブル期の料金設定を知って、つくった経験のある人たちは「これはボランティアでしょ?これは何のためにやってるんですか?」って今でも言われる(笑)

何というか、パパパっと設計図どおりに決めて、みたいな話じゃなくて。設計図は一応あるんだけれども、現場は全然ちがう。
みんなでどうしよう、こうしようって決めてた。
「こういう仕事を始めて」ってみんな言ってた(笑)
ホント、本当に楽しかった。

五足のくつの宿とは別の所にある下田温泉のモニュメントです。
奥に映っている人物は、天草で会社を経営する尊敬している父です。今回の取材の移動に協力してもらいました。私は東京・羽田空港から熊本空港を経由して天草空港に着いて、父の運転する車で五足のくつへ直行しました。お陰でアポの時間に間に合いました。
父も山﨑オーナーに会えて、とても嬉しそうでした!

日本でいちばん、雑誌の取材が多い宿だった

ここがオープンした時、おそらく日本で1番、雑誌の取材が多い宿だったんじゃないかな。取材がホント、すごかった。目につく雑誌みんなきたって感じ。当時、まだ雑誌やテレビが主導権をもっていて世の中を動かしていた。そういう時に、雑誌の人たちの間で口コミになってくれたことが、すごくよかった。

あとで考えると、私がお金を払った訳ではないので、広告ではないんだけれども、それだけ世の中が動いてくれる事が必要だったんだろうなと思いますね。

--いかがでしたか?--
赤木「素晴らしい。すごく感動しました。天草にいっぱい人がきて欲しいし、こんなに素晴らしい山﨑オーナーに会いにきて欲しいと思います。」

優しさと才能にあふれた山﨑 オーナーです。
離れのレストランにて。

ぜひ、天草に来てください!

この度は、石山離宮 五足のくつの山﨑 博文 オーナーに初めてお会いして、一生の思い出となる貴重なお話をきくことができました。また取材のあいまも自然体でお客様と会話され、山﨑 オーナーの心温かい芯のある優しさを感じました。

今回の記事は、山﨑 オーナーのご協力また写真をご提供いただいた出永さんのお陰で出来ました。天草には天草弁でよかよ(いいですよ)の心で受け入れて下さる方がたくさんいます。

是非、お祝いの日や記念日に大切なかたと五足のくつにご宿泊いただき、天草の自然にいやされ、優しい天草の方と出会い、そして山﨑 オーナーに会いに行かれてみては、いかがでしょうか。


天草・大江の日没まえの須賀無田海岸からみた、小ケ瀬にしずむ夕日です。
Photo by Mikio Idenaga

先にお知らせしましたが、五足のくつのホームページです↓
是非、ご覧ください!

山﨑 オーナーの旅館、伊賀屋のページです↓
ミシュランガイド熊本・大分2018 特別版に掲載されたそうです!
是非、ご覧ください!

天草市以外に住む方が天草を応援する為の「天草市ふるさと住民登録制度」の概要です↓天草市ふるさと住民になって天草を応援してみませんか。

みつばちラジオ
天草の情報が公式アプリでは全世界で聞けるラジオです。
是非、みつばちラジオをご視聴ください!

天草に関することが書かれたふるさと住民の記事です↓
是非、ご覧ください!


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